倒錯的理論展開

華麗に、美しく、優雅に、人の道から外れていってるhikaruですw
今回はEOHネタではなくw自己完結思考論

我儘は何をもって我儘とすべきか。
それは誰にどこまで許される?果たしてそれ自体が我儘である可能性は?
自己中心的。世の中生きてる人でそうじゃない人は居ないと思う(度合いが肝心ってことであるが)この書き物も斬首刑並みの自己中である。
しかし、これが罪に問われたり、社会的批判を受ける対象とならないのは、自己完結の世界に生きているからである。いわゆる自己満足と同類とみなしてよいであろう。
人に何かを求めることが我儘であれば、それはそれで分かりやすいが、そうもいかないわけで、一般的意見を出してみれば「平等」という概念から外れた利己的な行い(なんだか議論が矛盾しだしたが気にしない。)を我儘といえよう。
しかし、その一般的な「平等」を判断する明確な規準を持たない、もしくは故意的に捻じ曲げて解釈している集団による論議であった場合はどうであろう?もう何がなんだかという事態になりそうだ。
あぁ、そうか。これが人間関係なんだ。
そう感じたとき、軽く人間不信になりそうだったが、不屈の楽観視とたゆまぬ思考放棄でカバーリング。自分だってしてるわけだし、それで相手を認めないのもおかしいかなと。(この間、いろいろな論議をスルー。思考放棄。現実乖離。)
なるほどね。寝ればいいんじゃん。一晩寝れば次の日にはすっきりしているさ。よっぽど自分の心が醜悪に出来ていない限り…。

久々に頭を本格起動すると疲れます。倒錯している頭を整理する意味でも休みましょう。このごろは周りが見えないくらい頭の中が忙しい。逆に軽く体を動かしていたほうが楽な気もする。もともと鬱な人ではないから安心だとは思うが、何かと気苦労が耐えないのも事実。実は甘いもの苦手なのも事実。飲み物が好きなのも事実(一般的な自動販売機で売られているものに限るが)事実≠fact(真実)ではないが自分ではそう思っている程度のことであろう。

慈しむ 心。

これもまた人が永遠に求めて、己が存在する限り、決して手に入らないものの一つかもしれない。