悦楽乖離主義〜絶対零度〜

さあ第二章。徐々に壊れていく姿が素敵な(だといいな)hikaruです。ちなみに素敵=笑える、ということにします。

EODでODの検索に引っかかる点が泣けました。薬は止めとこうよ。刃物もね。
基本的にそのような人は血を見ると安心するといいますが、これはなんとなく分かる気がします。
自分の身体から赤い血が流れていることが分かると大分落ち着きますよね。
あぁ、俺、生きてるんだな。って。こういう自己確認って何も変化のない、生きてるかも死んでるかも分からず、ただの繰り返しの中で生きる人々にとって、自信の証明、生きてる証、ここにいる理由、等の様々な肯定要素となりうると思います。ただ、その方法が自傷行為というのが哀しすぎると思うのは自分ひとりではないと思います。(なんだか書いてて落ち着いてきたw)自分はODではないのでそんなことお前にいわれたくないと言われても仕方がないけれど。
しかしながら、言ってしまえば、その反論を受ける責任がこの書き物には存在しないわけで、その台詞こちらから熨斗つけて三倍返しで暮れの元気なご挨拶とさせていただこう。(いい感じに激化再開w)
個性の時代といわれる現代において、自己確認、画一性からの脱却、個の尊重、様々なテーマが論じられる中で、これが自分だというものを持っている人はどれだけいるのだろうか。
ある人は自分探しの旅に出て、自己責任をとる結果となり無言の帰宅を。ある人は画一性を押し付けられ、暴走し、自らの血族を傷つけることとなった。そのほかにも様々な象徴的事件(事件に限らず)があるだろうが、一ついえるのは今この時代に圧倒的に不足しているものがあるということである。
それが何なのかという点にいえば、多くの論議を醸しそうだが、自分はその答えは「会話」だと思う。「会話」は人とのコミュニケーションの手段でありその一言でその人の「ひととなり」が分かるというものだ。一人一人が自己主張を繰り返し自己陶酔する中で、誰ともしゃべろうとしない人が増えすぎたのだろう。絶対零度の世の中で、アナタの一言に救われた。そんな暖かな「会話」をしていきたい。